個人の生活に紐づく健康・医療・介護等に関するデータであるPHR(Personal Health Record)は、患者への適切な医療の提供、質の向上だけでなく、現場の負担軽減にもつながることから、医療機関を中心に注目を集めています。PHR普及推進協議会はこのほど、「患者と医療者をつなぎ支えるPHRサービス」をテーマにした座談会を開催。3社の賛助会員企業が参加し、医療機関とPHRサービス事業者の連携や、PHRと医療機関の連携が患者様や現場の方々にもたらすメリットについて語りました。PHRの普及推進につながるヒントが多く出てきた座談会の様子をお伝えします。
【座談会参加者】
- 石見拓 PHR普及推進協議会代表理事/京都大学大学院医学研究科社会健康医学系専攻予防医療学分野教授
- 田中倫夫 アストラゼネカ株式会社執行役員/メディカル本部長
- 安達幸佑 テルモ株式会社 メディカルケアソリューションズ
カンパニーライフケアソリューション事業 デジタルヘルスマーケティングリーダー - 古屋博隆 テルモ株式会社 メディカルケアソリューションズカンパニー ホスピタルケアソリューション事業 部長
- 石川智之 マイクロソフト コーポレーション(米国本社)インダストリーブラックベルト社会保障事業推進室長
- 大嶽和也 日本マイクロソフト株式会社 ヘルスケア統括本部
医療・製薬営業本部アカウントテクノロジ-ストラテジスト
【聞き手】
- 阿部達也 一般社団法人PHR普及推進協議会専務理事/株式会社ヘルステック研究所 代表取締役
- 大山訓弘 一般社団法人PHR普及推進協議会理事・広報委員長
日本マイクロソフト株式会社 業務執行役員 パブリックセクター事業本部 ヘルスケア統括本部長
患者の治療記録を一元管理できるスマートフォンアプリを開発
石見:まずは皆様の事業内容をご紹介いただければと思います。
田中:アストラゼネカは、大きく分けて3つのPHR関連の開発に取り組んでいます。
1つ目は、患者さん自身の健康管理を支えられるシステムの開発です。システムは予防と治療の2段階に分けられ、予防では、ビッグデータに基づくAIアルゴリズムにより、患者さんの健康状態を予測し、罹患を防ぐことを目指します。治療では、早期介入することで、重症化を防ぐことを目指した 仕組みとなっています。
2つ目は、個人健康情報管理プラットフォームサービスを提供するパートナー、例えば株式会社Welbyと連携して開発・提供するスマートフォンアプリです。共同開発するスマートフォンアプリは、患者さんが日々の状態を記録することで自身の治療記録を一元管理し、可視化も図ります。
3つ目は、薬の副作用を事前検知するシステムです。その一例は、患者さんにウェアラブルデバイスを装着していただき、血中の酸素濃度等から体調をモニタリングします。さらに、モニタリングしたデータを解析し、健康状態が悪化するとアラートを発出することに繋げる仕組みを考えています。
安達:テルモは、糖尿病をお持ちの方向けサービスとして「メディセーフデータシェア」というクラウド型データマネジメントシステムを提供しています。糖尿病の治療ステージがいくつかある中で、メディセーフデータシェアは、インスリンを投与している方に向けたサービスという位置付けです。
メディセーフデータシェアは、NFC(近距離無線通信)を搭載した弊社の血糖測定器と連携させることで、簡単に血糖値を記録できます。また、食事や運動などの生活習慣記録や、他のバイタルデータも記録可能です。さらに、患者さん、医療機関の双方のアカウントを連携させることで、医師が診察の中でも活用できるサービスとなっています。
電子カルテとPHRのデータを統合する重要性
石見:アストラゼネカのアラートシステムにせよ、テルモのメディセーフデータシェアにせよ、家庭で収集したデータをいかに医療者につなぐかが大事な役割になるのかなと思います。家庭で収集したデータを医療者につなぐという役割について、マイクロソフトはどのようにお考えですか。
石川:データを総合的に集めていく重要性については昔から言われていますが、医療機関の多くはAI(人工知能)を駆使するためのデータを集めることに苦労しています。データの細分化により、電子カルテとPHRのデータ・情報が分かれてしまっているためです。これらをいかに統合するかが重要ですね。
さらに、テクノロジーのサイロ化により、医療データの収集や分析、活用といった各領域にいるプロフェッショナルな人材が分断されているという課題があります。このような状況のため、最初のデータ収集で時間がかかり、AIの活用がなかなか進みません。
あとはユーザーインターフェース(UI)も課題に挙げられます。各データ領域で、UIが違うので、現場のスタッフや患者さんの思考がストップしてしまっています。この現状を踏まえると、今後は、患者さんが自ら操作する時でも自動的にデータが1つのプラットフォームに吸い上げられていくといった世界観の実現が求められています。未来図は見えていますので、各システムで収集したデータを統合し、いかに医療者につなげていくかが鍵になると思います。
PHRと医療機関の連携によって、患者の治療に対するモチベーションが維持される
石見:続いて、PHRと医療機関がつながると、患者さんにどういったメリットがあるかについてお伺いできればと思います。
田中:メリットは短期、長期の両方で切り分けられると思います。短期的には、服薬状況や体温、副作用といった日々の状態を病院側と共有することで、患者さんと担当医とのコミュニケーションが円滑になるのがメリットといえるでしょう。
長期的には、データの経過的な観察により、疾病の長期的なリスクを特定できるのがメリットです。疾病のリスクは、ピンポイントのデータだけではわかりません。日々の患者さんのデータが手元にあって初めて、変化が現れます。
安達:PHRと医療機関の連携によるメリットは、患者さんの糖尿病治療に対するモチベーションが維持されることです。
糖尿病をお持ちの方の中には、就業者を筆頭に、受診間隔が1カ月、長い方で3カ月くらい空いてしまう方が少なくありません。観察できるデータのタイムラグが起きると、そうした方は徐々にモチベーションを低下させてしまいます。
一方、PHRを活用すると、受診間隔の長短に問わず、患者さんがデータを記録・観察できます。例えば、メディセーフデータシェアには、患者さんがアップロードした写真を介して医師とやり取りできる機能があります。この機能により、患者さん側は優しく見守ってもらっている気持ちになり、治療のモチベーション維持につながります。この点、PHRは、受診間隔が空いてもその間隔を埋めてくれる存在ともいえると思います。
成功体験を積み重ねることで、ロールモデルを構築できる
石見:家庭で収集したデータを医療者につないで、患者さんのエンゲージメント向上につなげるというアプローチについては、かなり活用されていますね。
安達:ただ、医療者側の認識としては、PHRの連携を多用すると、業務負担につながるという懸念があります。このため、PHR連携による成功体験を患者さん、医師の双方で積んでもらうのが、有用ではないかと思います。現在の普及状況から考えると、何人かに対象者を絞って使っていただいた上で成功体験を積んでもらうのがベターです。成功体験を積んでもらった後、PHRと医療機関の連携が広がるかと思います。
石見:今はPHR連携による成功体験を積み重ねる段階ですね。成功体験の積み重ねにより、ロールモデルができると思います。
PHRは、患者さんが継続的な検査をしているかを測定するうえでも有用です。検査の実施状況のデータもPHRに残っていれば、患者さんが医療機関に訪れた際に過去のデータが共有され、実施すべき検査が明確化されます。
安達:石見先生のお話を聞くと、PHRによって異なる診療科の先生が、既往歴を一目で確認できる世界観が実現できるのではないかと思います。例えば、眼科の先生が、糖尿病の既往を把握するといった形です。これにより、患者さんが検査の必要性に気づく頻度が増え、重症化予防の領域が進むのではないでしょうか。
石見:おっしゃる通りですね。私は循環器内科が専門ですが、普段は電子カルテを読み込み、別の診療科の診療録を調べるといった行為はしません。しかし、PHRがあれば、簡単に他科での診療経過も共有できるようになると思います。
古屋:診療録の共有は、電子カルテが統合されていなくても、別のソフトウェアを立ち上げるだけでも可能なのでしょうか。
石見:診療録の共有は、段階があると思います。最終的には電子カルテを通じた情報共有が理想ですが、電子カルテは運用上の制約が多々あります。このため、短期的には先ほどの成功体験のような話で、簡易のタブレット等を経由して情報が伝わる形で十分かと思います。
PHRの普及には、標準化されたプラットフォームの構築が鍵
石見:しかし、今はPHR連携の成功体験がないので、医療機関側に電子カルテの改修といったモチベーションがありません。マイクロソフトはその点についてどのようにお考えでしょうか。
石川:厚生労働省は、「医療DX令和ビジョン2030」の中で標準型電子カルテの開発に本年度から取り組む予定ですが、「PHRを取り込む仕組みを入れよう」といった意見は聞こえていません。
今は病院ごとにPHR連携の仕組みを構築するのが難しいので、PHRを取り込む前提で標準型電子カルテを作っていけば、PHRと医療現場に溶け込んだ世界が実現されるかと思います。いずれにせよ、PHRの普及に向けては、国が音頭を取って、PHRを取り込むプラットフォームを構築するのが重要です。
石見:おっしゃる通りで、標準化されたプラットフォームの構築が本日の議論の鍵になるかと思います。標準化されたプラットフォームへの連携を想定しながら、まずは生活習慣病や救急災害といったPHR連携のメリットが分かりやすい領域にフォーカスし、日常的なデータを複数の医療者と共有して医療の質が高まるといった実績を積み重ねるのが理想的と考えています。
標準化するのはプラットフォームだけではありません。PHRの指標や基準を標準化するのも重要ですよね。例えば、酸素飽和度や体重といった指標の基準を標準化しておき、どのPHRサービスでも基準を見られるようにするといった形です。
そのうえで、受診する医療機関に関係なく、各医療機関の医療者がPHRを見られるようにします。これにより、ガン専門の医師が気づけない疾患を、循環器の医師が気づけるといったメリットも生まれるでしょう。
安達:ただ、こうしたPHR連携が進むと、患者さんの病状の変化を見逃した時の責任の所在が問題になるかと思います。PHR連携を進めるだけなく、PHRを通じた病状のスコア化、可視化も重要です。そのスコアもガイドラインで規定されていれば、医療機関によるPHRサービスの普及が進むと思います。
PHRによる責任の増加を懸念していては、医療が永遠に発展しない
石見:おっしゃるようなPHR連携の課題については、医療が発展していく過程の中での課題ではないかと思います。このような課題は、AED(自動体外式除細動器)が普及する過程でも起きました。
AEDは2024年7月に、市民による使用が許可されて20周年を迎えます。AEDは当初、学校に設置されていないのが当たり前だったので、使わなくても責任を問われませんでした。
しかし、今はAEDが当たり前になったので、学校がAEDを適切に使用できなかったら責任を問われます。AEDの普及活動を始めた当初、弁護士さんから「基準が変わるので、責任を問われる方が出てくることも覚悟しなければいけませんよ」と言われていましたが、基準の変化により、責任範囲が広がるのは、医療が発展するということだと思います。
PHRの場合も、データ連携により見える範囲が広がり得るので、「医療者の責任が問われやすくなる」といった懸念はあります。しかし、責任増加の懸念により、PHRを普及させないという姿勢では、医療が永遠に発展しません。
古屋:そういう意味では、AEDも当初は医療者が使えなかった一方で、現在はわれわれも使えるようになっています。もしかしたら、PHRも医療者だけではなく、一般人のわれわれも一定の判断基準のもと、使えるようになると、すごく世界が広がるのではないかと思いますね。
石見:PHRの場合は、AEDよりもデータが複雑です。このため、一概に言えないのですが、PHRの運用にあたって医療者に対するサポートもないと、医療者側も二の足を踏んでしまいますよね。普及に際しては、多くの情報処理に追われることがないように医療者の負担を軽減する仕組み、機能の導入や、法律やガイドライン等で医療者に過度の責任を求めることなく、PHR連携の活用が進むようサポートしていくことも重要です。
対話型AIが必要なデータの抽出を簡素化する
大嶽:やはり、PHRの普及にあたっては、インターフェースを1つに統一することが重要です。われわれは、医療者もPHRを活用できるように、インターフェースを統一したうえでデータ収集・分析といった1つ1つの作業を簡略化する開発姿勢を非常に重要視しています。
1つのパッケージの中で、時にAIの力を借りながら、いろんなPHRサービスにあるデータを分析できるプラットフォームが理想です。こうしたプラットフォームであれば、利用者側に専門的なスキルが必要ありません。われわれは、医療者が簡単に患者さんの状態を確認できる形を目指し、プラットフォームづくりを進めています。
石川:われわれは、双方向でやり取りできる対話型AIを実装した電子カルテについても、構想を描いています。構想する電子カルテでは、医師が質問すると、AIが必要なデータを可視化したり、現状の健康状態から逆算した検査数値の予測値を出したりしてくれます。対話型AIを実装した電子カルテのように、今後は、たくさんのデータからほしいデータを引き出せるソフトウェアの開発が重要だと思います。
石見:その辺りがまさにインタラクティブAIがサポートしてくれる領域だと感じますね。
古屋:医療者が必要なデータは限られていると思います。複数のデータをビジュアライズして見やすくする方法もありますが、一番重要なのは、必要なデータの抽出です。この点、AIが必要なデータを抽出する上で役に立つかもしれません。
田中:それでも、AIが抽出するデータが現場の医師が使うデータと全く同じであれば、AIが大きく大きな発展しないのではないかと思います。
AIで抽出したデータと現場の医師が使うデータの間に若干の違いが出てしまうのが、ある意味、理想です。AIを通じたデータの収集・分析を進める上では、通常の診察よりも広い範囲のデータを集めつつ、要所で大事なデータを取捨選択できるのが重要だと思いますね。
現場の医師の意見をもとにしたPHRサービスの構築が重要
石見:PHRを医療現場とうまく連携させるためには、PHRサービス事業者と医療機関の双方がやり取りすることが必要です。多くの医療機関では現状、電子カルテを構築する際にも現場の医師の意見が十分に反映されていないように思います。
先日、ガン治療を専門にする医師が、「多くの患者さんがしんどくても自宅にいたいので、すれすれの状態まで頑張って苦しいと言わないんです。そして、最後に耐え切れなくなって救急搬送されるケースも多いので、自宅での酸素飽和度や患者さんの自覚症状を把握できる機能が欲しい」とおっしゃっていてなるほどと思いましたが、こうした現場の医師の意見をもとにしたPHRサービス、医療との連携の構築が重要ですね。
現在、ICT(情報通信技術)の発展により、診察時の情報だけでなく、1日単位の体重や血圧など、詳細なPHR(ライフログ)データの収集が可能になりました。これにより、医療情報が増えるという側面がありますが、「一定のラインを超えるとアラートが出る」といった機能を設けることで、現場の負担も減らしつつ、PHRデータを活用することが可能です。PHRサービス事業者の皆さまには、そうした点を意識しながら、サービス開発を進めてもらえればと思います。
文:Omura Wataru